おしゃれな人の間で注目を集めている波佐見焼。北欧デザインを思わせる洗練された色合い、機能的でスタイリッシュなデザイン、
枠にとらわれない自由な絵付けなど、その魅力は言葉で言い表せません。
この記事では、波佐見焼の産地である長崎県波佐見町や、波佐見焼の歴史、波佐見焼の特徴や魅力、使い方などについて説明していきます。

波佐見焼の里「波佐見町」はどんな町?

波佐見町は長崎県のほぼ中央に位置する自然豊かな町です。人口は約1万4800人で、町の西部は長崎第二の都市・諫早市に、北部は「有田焼」で知られる佐賀県有田町に接しています。有田町のさらに北部には、「伊万里焼」で有名な伊万里町があり、この地域一帯が焼き物の産地として発展してきたことがうかがえます。海岸線が北海道に次いで長い長崎県内において、唯一海に面していないことも特徴です。

町の面積は56平方キロメートルで、形は長方形に近く、町の中央を南北に貫く川棚川から恵みを受けて古くから農業が盛んにおこなわれてきました。波佐見町に最も観光客が訪れるのは、陶器市の開催期間です。ゴールデンウィークには100を超える窯元や商社が参加する陶器市「波佐見陶器まつり」が行われます。また、4月の第1週末に行われる中尾山の陶器市「桜陶祭」では、普段じっくりと見ることができない窯元を巡ることができます。

江戸時代に始まった「波佐見焼」の歴史について

波佐見焼の歴史は、江戸時代に始まります。豊臣秀吉が行った朝鮮出兵「文禄・慶長の役」(1592~1598)で、初代大村藩主・大村喜前(よしあき)が朝鮮半島から連れ帰った陶工・李祐慶が、その礎を作りました。大村藩に帰化した李祐慶が、波佐見町村木郷の畑ノ原に朝鮮式連房登窯を築いたのは1599年のことです。この「畑ノ原窯跡」は現在復元されており、国指定史跡に定められています。同時期には、古皿屋、山似田にも登り窯が築かれました。李祐慶は、1605年に三又山から良質の陶石が取れることを発見し、三又に窯を築いて磁器の製造を加速化させます。三又山では約350年間採掘が続けられ、現在その跡は「三股砥石川陶石採石場」として国指定史跡にも定められています。その後、生産拠点は中尾山に移りました。

1650年代に波佐見焼の歴史にとって大きな転機が訪れます。海外に食器を輸出していた中国で内乱が起こり、輸出を禁じた「海禁令」が出されたことで、日本の焼き物が注目を浴びるようになったのです。波佐見でも青磁や染付の食器が大量生産され、主に東南アジアに向けて輸出されました。しかし、その後中国の内乱がおさまると同時に海外向けの需要は減っていき、波佐見焼は国内向けに生産されるようになります。

国内向けに大量生産された波佐見焼は、安価で手に入りやすかったため、庶民が使う日用食器として全国に広まります。大阪では、船で飲食物を売るときのかけ声「くらわんか」を用いて「くらわんか碗」「くらわんか皿」という名称で親しまれました。また、長崎を通じて海外に醤油や酒を輸出する際にも、波佐見焼が使われていました。この容器は「コンプラ瓶」と呼ばれています。実は、波佐見焼は、江戸時代には積出港の名を取って「伊万里焼」、明治以降は積出駅の名を取って「有田焼」として出荷されていました。当時流通していた伊万里焼、有田焼の中に波佐見焼が多く含まれていたことが推測できます。

シンプルでスタイリッシュ!「波佐見焼」の特徴と使い方

現在の波佐見焼は、鉄分やチタンの含有量が少ない天草陶石を原料として作られています。天草陶石を使った磁器の焼き上がりの色は白いのですが、枠にとらわれない波佐見焼らしく、釉薬でカラフルに色付けされたものなど、さまざまなタイプの食器が作られています。

生活に根差した日常使いの器として作られてきた歴史から、シンプルで飽きのこないデザインが多いです。現在でも日用食器の13%のシェアを誇るといわれており、大量生産をするために分業制で作られています。成形方法は、昔ながらのろくろや、型打ち、袋流し(排泥鋳込み)などです。波佐見焼を一躍人気にしたのは、北欧デザインを思わせるモダンで機能的なデザインです。グッドデザイン賞を受賞したロングセラー商品もあり、おしゃれなカフェで使われるなどして人気を集めています。

波佐見焼の使い方

波佐見焼の食器は料理映えします。磁器特有のつるっとした質感を生かすような繊細な絵付けや、スタイリッシュなデザインが、料理を引き立ててくれるのです。「かわいくて使うのがもったいない」と感じるかもしれませんが、どのような料理にも合う波佐見焼の魅力を存分に楽しむなら、毎日の料理で使うことがおすすめです。水分を吸収しにくく汚れにくい特性があり、機能の面でも普段使いに向いています。